連載コラム 海外文学 書評【NO Satisfaction?】Vol.1

ポール・オースター「ティンブクトゥ」(1/2)

石間異流(Iryu Ishima)


2007/10/30

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夏目漱石が今この21世紀に生きていて、この小説を読んだらどう思っただろう。「ああ、もう一作、犬で書けたじゃないか!」なんて思うのだろうか。猫が主人公の小説を書いて一躍名を馳せた夏目の小説に対して、オースターはすでに小説家としての名声をほとんど達成し、円熟と老成の時期にさしかかったときにこの『ティンブクトゥ』を書いた。ティンブクトゥとは、死んだ生き物が行くあの世の世界のこと。そしてこの物語は、ティンブクトゥへ行ってしまった主人のことを思いつつ、自分もそこに行きたいと願う、「人語」を理解できる犬、ミスター・ボーンズの遍歴を描いた作品である。

ポール・オースター「ティンブクトゥ」

という風に書くと、名犬ハチ公の様なお涙頂戴忠犬ストーリーが繰り広げられるように思えるが、確かにそういう感傷的な側面もありながら、どちらかというとこの小説はこれまでのオースター作品への「入門編」の様な、相変わらずの「生きること」と「歩くこと」と「考えること」に関する思考を綴った小説というほうが近い。「犬」を主人公に据えることで、これまでオースターにとって自明だった様々な問題系が、もう一度反省的視線から眺め返される。オースター作品で何度も繰り返されたテーマが、犬の目を通すことでもう一度新しい角度と色合いを帯びて、我々の目に浮かび上がってくる。基本的な仕掛けは、そんな風にして進んでいく。

さて、ここで少し足を止めて考えてみよう。犬にとどまらず、人間以外の生物を主人公にして描く小説というのは結構多いけれど、いったいその利点はなんだろう。夏目漱石の「猫」は、人間の生き様の馬鹿馬鹿しさを暴くために、人間とは別の思考様式と常識を持ったものとして、猫の視点が要求された。他の例。たとえば有名なファシズム批判小説『1984』を書いたジョージ・オーウェルのもう一つの代表作『動物農場』は、当時の思想検閲の目をくらますために、人間世界の醜悪な政治のやり取りを、動物の姿を使って描くことで、いわば「目隠し」にしたのだ。両者とも「動物と人間の差」ないしは「断裂」を上手く利用した作品のように思う。そしてオースターもまた、彼の犬ミスター・ボーンズを、そのようにも使う。つまり、人間とは違う視線を持った存在としての「犬」。しかし、オースターの犬は、むしろ「人間と違う存在の犬」というよりも、「人間と同じ存在としての犬」という側面の方が、ぐっと強くなる。平たく言えば、ミスター・ボーンズは犬というよりも、人間というほうが近い。そしてオースターは、まさにその「犬としての人間」であるミスター・ボーンズの中に、自分自身と人類の運命全体の姿を見ている。これには説明がいる。オースター氏はユダヤ系であるという、この事実を考えねばならない。

近年になってオースターはますます自分の出自であるユダヤ人コミュニティのことを強く意識していることは、作品の節々にユダヤに関する言及が増えて行っていることからも明らかなのだが、この物語は最も直接的かつ露骨に、ユダヤ人虐殺の問題が物語の冒頭に示されている。ミスター・ボーンズの飼い主であるウィリーの両親が、ナチスのユダヤ迫害から命からがら逃げ出してきた人々として描かれる。ページ数からいってもかなり多くを割かれているこの部分は、ある意味では物語全体からすっかり浮いちゃっている気がしないでもない。なぜなら、表面上はこの物語ではユダヤ人問題などまったく取り扱っていないからだ。にもかかわらず、私がオースターのユダヤ性云々を取りざたする理由というのは、先ほどすでに書いたが、オースターがミスター・ボーンズを決して「犬」とは見ておらず、人間として描いている様に思える点にこそ理由がある。世界を放浪し、常によくわからない政治ゲームに巻き込まれて、自分の運命に翻弄される存在として、「犬」と人間を重ね合わせているのだ。このとき、オースターの頭をよぎっているのは、勿論自分の民族の運命に違いない。歴史に翻弄され、世界中を放浪することを運命付けられたディアスポラの民ユダヤ人の運命のことを。