石間異流(Iryu Ishima)
関西の大学院卒業後、各地を流転しながら文学研究に励む英米文学者。文学をこよなく愛し、文学から見える世界の様相、文化、思想などを緻密に読み解いていく。
石間異流(Iryu Ishima)
2007/10/30
先ごろ、日本のユダヤ思想研究家である内田樹氏が『私家版・ユダヤ文化論』という格好のユダヤ思想紹介の本を出版した。その中で氏は、ユダヤ人の知性のあり方をこのように定義している。いわく「そのつどすでに遅れて世界に登場するもの」(189)。この定義は、ユダヤ人の知性のある一面を、非常に的確に見抜いている。常に生れ落ちたときに、何らかの罪を背負うことを宿命付けられ、そして自分のわからないルールを持っている神に強制的かつ自発的に従わねばならぬ民族としてのユダヤ人。そういう過酷な「遅れ」を取り戻すために、ユダヤ人は常に誰よりも知性的になってしまうのだ、その格差を考え抜いた結果として。それが世界に冠たるノーベル賞学者を輩出し続けるユダヤ的知性の源泉にある、と内田樹は述べる。オースターの小説に出てくる登場人物たちも、常にこの「遅れて世界に登場した」性質を色濃く持っている。わけがわからない世界のルールに巻き込まれ、意味不明な偶然によって自らの人生を翻弄される人物たちを、オースターは常に描き出す。そしてそうした「遅れてきた感覚」が最も強く、「わけがわからない世界のルール」を最も痛切に意識する人物、いや犬物が、この小説の主人公であるミスター・ボーンズということになる。私が彼を「犬としての人間」と呼ぶのは、オースターのユダヤ的性質を経由することで、初めてその意味がくっきりとする。
正直この小説は、オースターの他作品と比べると文学作品としての密度が低いように思える。失敗作とはいえないが、何かこう、オースターに特有のあの明晰な言葉の力が、この小説では饒舌な言葉によってさえぎられているような、そういう印象。しかし、そういう部分がまた、この小説の魅力を増している原因にもなっていて、この小説を書くオースターはなんと楽しげなんだろうとも感じるのだ。多分その原因の一つは、オースターがこの小説の主人公であるミスター・ボーンズのモデルを自分の愛犬に得ているというのもあるだろうし、何よりもこの小説は、こんなに最後は悲しいのに、愛に満ちているからだろうと思う。「ほとんど皮肉じゃないの?」とさえ思える、ミスター・ボーンズとその飼い主ウィリーが見せる「博愛精神」が、皮肉などではない願いとしてオースターが描くとき、この小説は本当の意味での「ラブ・ストーリー」へと変化していく。その様が、私にはいとおしいのだ。この狂ったように憎悪が満ち溢れる世界に生きていると。
というわけで、最初の書評は、この近年まれに見る「愛の物語」を描いたオースターから始めさせてもらった。これからも私の関心事とそのときの気分に沿った書評を、毎月二回ほど書けたらなと願っている。皆さん、よろしくお願いします。
関西の大学院卒業後、各地を流転しながら文学研究に励む英米文学者。文学をこよなく愛し、文学から見える世界の様相、文化、思想などを緻密に読み解いていく。