連載コラム 海外文学 書評【NO Satisfaction?】Vol.3
ヘミングウェイ「われらの時代」(1/2)
石間異流(Iryu Ishima)
2007/12/18
ジョイスはこじんまりした埃っぽいダブリンの町とかすかに漂う臓物や屎尿の匂い。プルーストはパリのサロンとあの全てを生み出すマドレーヌ入りの紅茶の湯気。フォークナーは南部アメリカの湿気た土、メルヴィルは全てを飲み込む大海原のうねりと鯨油の焼けるいがらっぽい臭気、フィッツジェラルドは騒々しく煌びやかなパーティのさんざめきと、寂しく光る都会の家々。中上健次は路地の薄闇にうごめく男女の粘液のこすれあう音。文体から漂う匂いや息遣いは隠そうとしても隠し切れぬ癖のように、文体からにじみ出てくる。今では誰もが『老人と海』のノーベル賞作家として記憶し、アメリカ史に燦然とその地位を確立している、いわば「アメリカ国民の作家」であるヘミングウェイにも、勿論そうした文体の伝えるリアリティがある。いやむしろ他の作家以上に、ヘミングウェイの文章からは息も詰まりそうな輪郭の強い存在感が感じられるだろう。むせ返るほどに強烈な汗のにおい、闘牛たちがぶつかり合う強烈な震動と、緑豊かな田園を流れる清冽なせせらぎ。朴訥な農夫の大地に根を張ってでもいるかのような堅実な歩み。どこまでも間延びした牝牛の鳴き声。そして何よりも、時に炎の様に赤く、時に下水に流れこむ濁流の様に黒い、血。血の印象。そしてその果てに待っているこの世界で最も確かな存在である「死」。ヘミングウェイの文体から不可避に立ち上るものは、極言すると血と死。この二言に尽きる。
勿論、華やかで艶やかなヘミングウェイというものを今の我々は知っている。ストイックな文体とは裏腹に、常に生の充実を求めて食べ、飲み、楽しんだヘミングウェイを我々は良く知っている。たとえば第一長編『日はまた昇る』に描かれているのは若きヘミングウェイの青春の日々だ。出てくる作中人物には皆実際のモデルがいて、彼らの恋の鞘当をパリの瀟洒とスペインの情熱の元で精緻に描き出した。そこはかとない喪失の感覚も漂うこの名作は、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』と並んで、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる軽佻浮薄な1920年代を象徴する作品といえる。だがそうした作品を描く一方で、ヘミングウェイの作品からはついに「血」と「死」の匂いが消え去ることは無かった。シェークスピアのマクベス夫人が、手についた血を何度洗い落としても消えないと嘆いたように、ヘミングウェイの背中を常に追う死と、そして彼の目前に滴る血の呪縛は彼を最初から最後まで捉え続けただろう。ヘミングウェイのデビュー作である『われらの時代』の最初の一編は、「インディアン・キャンプ」という。死の瞬間まで続くヘミングウェイの、言葉に出来ぬ恐怖の全て、作家として戦い続けた怪物の影が、すでにこの傑作の中に色濃く射している。
「インディアン・キャンプ」は、短編というよりほとんど掌編というべき短い小説だ。ストーリーはヘミングウェイらしく至ってシンプル。ある医者の親子が、出産を控えた妊婦を助けにインディアンの村にやってくる。無事に医師である「父」は妊婦の出産を終えるが、二段ベッドの上に寝ていた妊婦の夫は、どういうわけかその施術中に首を掻き切って自殺する。端から端まで切り裂かれ、ぱっくりと口を開けた喉と、そこから流れ出てベッドに溜りを作る黒い血液。その凄惨な死に様を見た主人公のニックが、父に「死」の意味を問うところで物語は終わるという筋立てになっている。鮮烈に対比される出産と死が、出産に不可避な祝祭的な赤い「血」と、そして自ら喉を切って死んだ夫の不吉な黒い「血」とによって彩られ、余すところなくヘミングウェイの天分を我々に伝える。記者仕込みの簡潔な文体は、後に「氷山の理論」と呼ばれるあの独特のハードボイルド・スタイルとして、すでにこの最初期の短編で完成されている。しかし、こうした完成度とは裏腹に、ヘミングウェイ自身が言葉にさえ出来ない、海面下の氷山の如き想いを、我々はこの短編の中から注意深く拾っていくことが出来る。この短編の最後の文章はこのようになっている。
「父の漕ぐボートの艫にすわって早朝の湖水の上を進みながら、ぼくは絶対に死なないさ、とニックは強く思っていた」(高見浩訳『ヘミングウェイ全短編1「われらの時代・男だけの世界」』新潮文庫、26ページ)











