石間異流(Iryu Ishima)
関西の大学院卒業後、各地を流転しながら文学研究に励む英米文学者。文学をこよなく愛し、文学から見える世界の様相、文化、思想などを緻密に読み解いていく。
石間異流(Iryu Ishima)
2007/12/18
唐突に宣言される「死なないさ」というこの強がりとも言える言葉は、終生ヘミングウェイを悩ませた「死」の影の最初の一閃であり、そしてまた、自らの頭を散弾銃でぶち抜いた最後の瞬間まで、恐らくはヘミングウェイが戦い続けた怪物の、その本体の大きさを物語る。上にヘミングウェイの文体の特徴を私は簡単に書いた。「氷山の理論」と呼ばれるそれは、後にハードボイルド作家たちがこぞって採用する、ソリッドで簡潔な文体のことを指している。世界をジャックナイフで切り取るようにして鮮やかに描き出すヘミングウェイの文体は、それまでのいわば過剰な装飾に満ちた散文小説の世界に、大きな一石を投じることになった。この流れは現在までも連綿と流れ続け、たとえばレイモンド・カーヴァーなどに連なるアメリカ短編小説の大きな源流にもなっている。しかしその始祖とも言うべきヘミングウェイは、なぜ「見えるものだけ」を徹底して書こうとしたのか。ほとんど偏執的なまでに外面の描写に拘泥し、「内面」やら「精神」といった小説家お気に入りのテーマを殆ど書こうとしなかった。勿論それは、芸術的意図もあっただろう。若き野心家ヘミングウェイは、ジョイスやプルーストやフォークナーたちがそうしたように、「自らの文体」を文学領野で打ち立てんと欲したのだろう。冒頭に書いたように、全ての作家は自分の文体を持つものだし、逆に言えば自分の文体を持てぬものは、いくらあがいても作家にはなれない。ヘミングウェイ、イコール、ハードボイルド。それを打ち立てたかった、それもある。だがそうした文学的な動機の下、そそり立つ氷山が浮かぶ海面の下に、見えぬ氷塊の本体の如くに横たわる真の動機は、「書かなかった」というよりは、半分以上、「書けなかった」のではないか。そんな風に私には思える。強がりにも見えるニックの「ぼくは絶対に死なないさ」という幼い宣言が我々に伝えるのは、人の死へと近接した幼いニックが、「死」を対象化できないままに取り込まれるさまだ。そのニックの様子は、大人になった人間によって回想的な距離感を持って描かれているというよりも、いま、まさに、その瞬間に襲ってくる怪物を眼前に捉えたものの恐怖を、殆どまっすぐに筆に落としてしまった者の、即時的で本能的な恐怖の暴発をこそ感じる。勿論ヘミングウェイも、ギリギリのところで自制を保っている。言葉の芸術家の本能だろうか、直前にニックの父である医師にこんな言葉を言わせている。
「いや、どうってことないとも、ニック。まあ、場合にもよるがね」(同26ページ)
場合にもよるがね。このなんとも軽い返答は、すでに数多くの死を経て、死とのある種の妥協を結んだ大人の人間の言葉として自然なものだろう。我々は鈍感になることで、死を日常世界の彼岸へと追いやる。この大人の態度を描くことで、ヘミングウェイは直後のニックの「死との対面」を効果的に演出している。だが事態はそれだけにとどまらない。少年のニックにとって死はあまりにも巨大で、喉からあふれ出てくる血の凄まじさは、彼を捉えてはなさない。父の達観とも諦念ともつかぬ、職業的な死への距離感が適当であればあるほど、ニックの幼さと、その幼さゆえに全的に対面してしまう恐怖の圧倒的性質は、小説の最後に巨大な影のようにして屹立する。このシーンを読むとき、私はいつもニーチェのこの一節を思い出す。
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」(『善悪の彼岸』第4章146節)
幼いニックは死を対象化して彼岸へと追いやることが出来ないために、まさにその怪物の深淵とface to faceで向き合わないではいられない。そして、その瞬間を演出する作家ヘミングウェイは半ば大人として、あるいは創作者としてこのシーンを効果的に描きだす一方で、その計算や大人としての慎みも全て吹き飛ばしてしまうようなこのニックの唐突な宣言に、たった一人で怪物に向き合っている個人としてのヘミングウェイの無言の叫びもまた、不可避的に響かせたように思えるのだ。そんなこの最後の一文は、彼自身の墓碑銘の様だ。「死なないさ」と誓った少年ニックの宣言で幕を開けた「作家ヘミングウェイ」としての人生は、この文章からおよそ40年後、口にくわえた散弾銃の引き金を自ら引くことで、唐突な終焉を迎えた。
ヘミングウェイの友人だったフィッツジェラルドは、かつてヘミングウェイを牡牛に喩え、その力強い文章の存在感を賞賛した。だがその雄々しきヘミングウェイは、堅牢に見える牛の筋肉の鎧の下で、殆ど子どもの様な繊細さと神経質さで死を恐れた。その恐怖は、自らの父親がライフル自殺をしたことを知った時に、宿命的にヘミングウェイと結びついただろう。そう、後に同じ死に方をするヘミングウェイは、父もまた銃による自殺で死んでいるのだ。軽やかで美しく弱かったフィッツジェラルドから見て、ヘミングウェイは確かに闘牛のように強く見えたことだろう。だがその牛が見ていた夢は、凄惨な血と死の夢なのだ。何度も回帰する悪夢。目覚めても目覚めても見つづける夢。うめくようにして描かれた一つ一つの文章は、氷山の理論に則ってほんのわずかな外面しか我々に伝えてこない。語られなかった海面下の黒い氷塊を、ヘミングウェイはどんな気持ちで見つめていたのだろうか。「インディアン・キャンプ」が収められた短編集『われらの時代』は、短編ごとの間に短い断章が挟まれている。ニックらしき兵士が体験した戦争のシーンが、その断章で語られる。闇の中の行軍、逃げ惑う難民、何人も殺したドイツ兵、膠着するバリケード越しのにらみ合い、チフスで倒れる仲間、座り込む自分の頭上を掠める弾丸。そんな体験の後、第七章で語られるニックの短い告白を、ヘミングウェイが兵士として体験したであろう絶望感に重ね合わせることは、それほどおかしなことではないだろう。
関西の大学院卒業後、各地を流転しながら文学研究に励む英米文学者。文学をこよなく愛し、文学から見える世界の様相、文化、思想などを緻密に読み解いていく。