マックロマンス(MAC ROMANCE)
1965年8月東京生まれAB型。1983年単身渡英しプロミュージシャンとして活動する。1988年帰国、バーテンダーに転身。1993年東京都目黒区自由が丘に「プースカフェ」を開店、自ら店に従事する。2003年バースタイリスト活動を開始。バーのプロデュース、カクテルブックの制作など多方面のフィールドで独自スタイルのバーワークを展開... 続きを読む
バー・スタイリスト MAC ROMANCE
2008/01/11
イギリスから強制送還になってから数ヶ月の間、つまり私がバーテンダーとしてのキャリアをスタートさせたばかりの頃、私は初台のアパートにひとりで住んでいた。礼金なし風呂なしトイレ共同四畳半の物件で家賃は電気代込みで2万円、アパートというよりは昔の学生寮といった感じの古い木造二階建ての建物だった。玄関を上がって右にのびる薄暗い廊下は、かつての食堂の面影を残す物置部屋へと続いていた。物置部屋は母屋へつながっていてそこで大家がひとりで暮らしているようだった。大家はいつも不機嫌そうな顔つきをした老婦人で、最初っから私のことをあまり気に入っていない様子に見えた。都心で家賃2万円のアパートに住む人間=あまりまともとはいえないような人たちばかりを長年相手にしてきた大家が、そこの住人に対して少々卑屈な感情を持っていたとしても何ら不思議はなかった。あるいは彼女は単に私のことだけが気に入らなかっただけかも知れなかった。何たってロンドン帰りのパンクロッカーである。老婦人に気に入られない理由ならいくつでもあげられる。
入居したのが晩秋で毎日のように寒さが深まっていくシーズンだったから、とにかく日々が寒さとの戦いだった。エアコンなんてもちろんついているわけがなく、電気ストーブは電気代が高いという理由で使用不可、こたつならオッケーというルールだった。最初は厚着をして布団にくるまり寒さをしのいでいたのだけれど、ある日、道ばたに電気ストーブが捨てられているのを発見した。持ち帰ったストーブは電熱管が一本壊れていたけれど、狭い部屋で暖をとるには一本の電熱管で十分だった。ルールを破って大家には申しわけなかったけれど寒い冬を乗り越えるためにそれはずいぶん役に立った。
水道は建物の外にある水まき用の蛇口のみで、歯をみがくためにも、わざわざ外履きに履き替えて家の外に出なくてはいけないのにはうんざりさせられた。でも、天気のよい冬の朝に白い息を吐きながら氷のように冷たい水で顔を洗った後の爽快感は、決して悪くないものだった。渋谷の雑貨屋で大きなガラスのボトルを購入しそれに水をいれて室内の飲み水に使っていた。
私の部屋は一階の一番隅にあって、押入れをはさんだ壁のとなりは共同のトイレだった。住人が用を足すあまりうれしくない音が薄い壁の向こうから聞こえてくるのがよく耳に入ってきた。窓を開けると目の前はコンクリートの塀だった。窓から塀まではほんの20センチぐらいしかなく、その先には塀にぴったり沿うように高い建物が建てられていて、塀と建物のせいで窓の外の視界は完全に遮られていた。窓から顔を出して上を見たことは一度もなかったけれど、そこから見上げる空はきっと細い空色の線のように見えたにちがいない。塀はのら猫たちのけもの道になっているらしく、複数の猫が塀の上を行き来するのをよく見かけた。彼らはいつも忙しそうで私に興味を示す猫は一匹もいなかった。興味どころか私の存在に気がついてもいないようなそぶりだった。実際に気がついてなかったのかも知れなかった。
その頃の私が飲んでいたのはストリチナヤというロシア産のウォッカだった。酒税法が改定される前の話で、流行中だったバーボンウィスキーは当時の私には高級品、ストリチナヤが唯一1000円以下で買えるボトル入りの洋酒だった。いくら金がないとはいえ、国産の安ウイスキーや焼酎などに手を出さなかったところが私たちの上の世代の人たちと異なるところだと思う。バイクを売りに出してコムデギャルソンのスーツを買った世代である。
ストリチナヤはいつも窓の外に置いてあった。東京の冬がキンキンに冷やしたストリチナヤをボトルからそのまま口飲みしてから布団に入るのが毎晩の日課だった。凍らせた金属のように冷たいウォッカがのどを通って腹に入り、今度は熱を持って体中をめぐり始めるのを感じながら眠りにつくのは至福の時だった。
私が日常的にウォッカを愛飲していたのは後にも先にもこの初台で暮らしていた冬だけである。だからというわけではないけれど、ウォッカがロシアをはじめフィンランドやスウェーデンなどの厳しい冬を持つ国々を原産としていることは感覚的に理解できる。それは孤独で厳しい冬だったけれど、ある意味で人生でもっとも充実した生活を送っていた時期でもあったような気がする。春がやってくる前にビザが取れたとの理由でまたヨーロッパに呼び戻され、私のストリチナヤライフは数ヶ月で幕を閉じた。部屋を出る際に例のストーブが大家に見つかってしまい、その時の彼女の私を蔑むような目は今でもしっかり憶えている。想像するにもう他界されていてもおかしくない年齢だと思うけれど、お婆さん、あの電気ストーブは電熱管が一本壊れていたんです。消費電力はこたつの強と同じくらいだったと思います。どうか許してくださいな。
photo by SATOSHI KINOSHITA

1965年8月東京生まれAB型。1983年単身渡英しプロミュージシャンとして活動する。1988年帰国、バーテンダーに転身。1993年東京都目黒区自由が丘に「プースカフェ」を開店、自ら店に従事する。2003年バースタイリスト活動を開始。バーのプロデュース、カクテルブックの制作など多方面のフィールドで独自スタイルのバーワークを展開... 続きを読む