連載コラム 海外文学 書評【NO Satisfaction?】Vol.4
マーク・トゥウェイン「ハックルベリイ・フィンの冒険」(1/2)
石間異流(Iryu Ishima)
2008/02/25
先ごろ、この連載で私はヘミングウェイを「アメリカ国民の作家」と呼んだ。そのヘミングウェイをして「全ての現代アメリカ文学はこの一冊からやってきた」と言わしめたのが、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』という小説だ。日本ではむしろ、前作にあたるところの『トム・ソーヤーの冒険』の方が有名なのだが、文学史上で燦然とマスターピースの地位に輝いているのは、やはりハックの方だ。古典文学の多くがその魅力を理解するために、ある程度の経験と訓練が必要なのに対して、「ハックルベリー・フィン」というこの小説のすごいところは、そうした文学的前提を必要としないところにある。象牙の塔の住人たちの自慰のための文学では決してなく、万人に開かれた名作なのだ。この小説ほど、瑣末な解説の似合わない小説もない。活き活きとした口語体と幾分皮肉交じりの軽快な文章によって語られるハックとジムの川下りは、次々と繰り出される愉快なエピソードによって彩られる、極上の冒険物語になっている。是非多くの人に、実際に手にとって読んでみて欲しく思うのだった。
さて、自分で自分の首を絞めるようなことを言ってしまった後に、恐々としてそれでも何か語ることが出来るとすれば、屋上屋にもならぬ賞賛を並べるよりも、この物語のもう一つの側面である、ぼんやりとした不安を素描することにあるんじゃないだろうか、そんな風に思う。上で私は、この物語を「万人に対して開かれている」と書いた。それは間違いない。だが、その手軽さにも関わらず、この小説は決して底の浅い「少年小説」に終わっていない。というよりも、作者マーク・トウェインは、この小説を単に少年たちのために書いたのではなく、完全に意図的に「大人たち」に向けて書いたのだった。かつて少年・少女であった我々大人が読んだ時、ハックルベリー・フィンという一人の少年が背負っている悲しみが、胸に迫ってくるように、そういう風にトウェインはこの小説を書いた。そしてそのハックの悲しみは、ある意味ではトム・ソーヤーとの係わり合いの中で一層浮き彫りになる。ではトム・ソーヤーとは一体何物なのか。永遠の少年、町の子どもたちのヒーロー、大人からさえも一目おかれるトム・ソーヤー。ハックルベリー・フィンの冒頭部分で、そのトム・ソーヤーが結成する少年盗賊団のくだりがある。その中でトムが団員に語る「おきて」の部分を、少し抜粋してみよう。その部分には、我々がイメージする天衣無縫の少年像であるトム・ソーヤーとは少し違った、しかし最も本質的な部分がラディカルに現れている。
「なに、どうしてもこうしてもあるもんか。そうしなければならないんだ。本に書いてあったと言わなかったかい?君は本にあることとはちがったことをして、なにもかもめちゃめちゃにしちまいたいのかい?」(『ハックルベリイ・フィンの冒険』村岡花子訳 新潮文庫 17ページ)
仲の良い悪ガキを集めて盗賊団を結成したは良いが、一体何をするのかでもめた少年たちは「ランソム(身代金と捕虜の受け渡し)」をしようという。ランソムという単語だけを、彼らは知っているが、それが一体何なのかがわからない。あれやこれやと議論するが、最後にトム・ソーヤーが「本にあること」通りにやらなきゃいけない、という鶴の一声で「ランソム」をすることになる。ここに現れているトム・ソーヤーの側面は、我々が思い起こす自由な少年としてのトム・ソーヤー像というよりは、むしろ教条主義的で権威主義的な側面だろう。勿論トムは、魅力的な賢い少年だ。だが、トム・ソーヤーというのはその魅力をむしろ、そうした「本にかいてあること」を意識し、遵守し、あるいは時にそれを反故にし反逆することにおいて、作り出している。いわば彼は、「本にかいてあること」に代表される「制度」と戯れることにおいて、誰よりも賢い少年として物語の中に現れてくる。だからこそ、クソ真面目な大人にとっては、トム・ソーヤーというのはその存在そのものが目障りになってくる。まるでトムのその放埓な大人社会の模倣っぷりと、その隙を見事に暴き立てるいたずらの巧妙さは、トムの存在自体を一種の大人社会に対する批判に仕立て上げるからだ。だが、そのようなトムは、一部の賢い大人たちにはその未来を夢見させるような資質にあふれている。大人社会の作り出す「制度」に精通し、それと戯れることの出来るトム・ソーヤーは、恐らくは大きくなればひとかどの人物になりうるだろう、そういう風に考える大人もいる。たとえば前作『トム・ソーヤーの冒険』のラストシーンでは、サッチャー判事という村一番の名士が、トムを将来「大法律家か偉大な軍人」に仕立て上げたいと言うシーンがある。大法律家にしろ軍人にしろ、見事にトムの教条主義的な気質に合致している点が興味深い。だが私は、このトム・ソーヤーは将来大法律家でもなく軍人でもなく、投資家になるのではないか、そんな風に思う。その証拠に、トム・ソーヤーは大人たちの作り出した制度とその隙間を時に利用し、時にかいくぐりながら、見事に最後には6万ドルの大金を手に入れた。彼の資質は、恐らくは何よりも「資本主義社会」が浸透し始めていた19世紀末のアメリカという世界の中で、先駆的な投資家として花開くだろう。そしてその原型は、少年時代のトム・ソーヤーの中にすでに見事なまでに明確な原型として、胚胎しているといえる。(ハックも同じく6万ドルを手に入れたが、物語の冒頭でサッチャー判事に譲ってしまっている)
そう、その意味ではトム・ソーヤーという少年は、「まだ大人になっていない人間としての少年」なんだろう。古来、少年という存在を我々は二通りの見方で認識してきた。「大人の原型としての少年」。トムはこちらの存在だ。力点は「大人」の方にあるのであって、「少年」はいわばその未分化で未熟なソース(源泉)に過ぎないという見方。そして多くの場合、我々大人は少年をそのような未熟な存在に見立てることで、彼らを大人の社会が作り上げる制度へと組み込んで行き、少年という未熟を、大人という成熟へと仕立て上げていく。そういう「少年像」がある一方で、大人社会そのものがいわば巨大な「堕落」だと考え、少年という存在の「無垢」や「純粋」を強調するもう一つの「少年像」がある。「大人として堕落していない人間としての少年」、そんな風に言うことが出来るだろうか。このもう一つの「少年」の典型として、ハックルベリー・フィンは物語の中に登場する。トムと比較するために、ハックのこんな台詞を引用してみよう。
「それであの馬鹿げた話はみなトム・ソーヤーのいつもの嘘の一つにちがいないと判断した。トムはアラビヤ人や象を信じているらしいが、僕はそうは考えない。それはまったく日曜学校臭かった。」(同25ページ)











