石間異流(Iryu Ishima)
関西の大学院卒業後、各地を流転しながら文学研究に励む英米文学者。文学をこよなく愛し、文学から見える世界の様相、文化、思想などを緻密に読み解いていく。
石間異流(Iryu Ishima)
2008/02/25
ハックの言う「馬鹿げた話」とは、ランプをこすったら「妖魔」が出てくるはずと言ったトムの話のことを指す。勿論この話も、トムお得意の「ごっこ遊び」の一つに過ぎない。制度と戯れ、それの魅力を知り尽くしている「未分化の大人」であるトムにとって、「ごっこ遊び」ほど、その才能が十全に発揮される場所はない。日曜学校の教師や生徒たちを「ランプの妖魔」に見立てることで、いわばトムは茶化して遊んでいるのだ。だがハックはそのトムの「ごっこ遊び」をもろに言葉通りに受け取ってしまって、三日間森に通い、ランプをこすり続けてしまう。そして三日後にようやく「嘘」と判断する。一事が万事、ハックはこのようにしてトムに振り回される。トムが華麗に操る「制度」のどの一つも、ハックには良くわからず、字義通りに受け取ってしまう。だからついにハックは、あれほど仲が良く、あれほど好きだったトムのことを、ついに「日曜学校臭」いと判断する。「日曜学校」とは、いわば大人社会の「制度」が、最も典型的に、かつ稚拙な形で具現した象徴として考えるべきだろう。朝一番にやってきて、何の意味があるのかわからない形骸化した挨拶や作業で時間をつぶす。我々大人が毎日直面している、あの馬鹿馬鹿しい仕事場でのやり取りが、先駆的な形で具現化しているのが「日曜学校」なのだ。そしてそのような「日曜学校臭さ」をトムの中に見出すのは、ハックルベリー・フィンという少年の、自然の叡智とも言うべき眼力の現われだろう。
そう、ハックルベリー・フィンというのはトムに代表される「制度」を全て受け付けない、いわば人間社会のどこにも居場所を見つけられない存在として、完全な「無垢なる者」としてこの世界に現れる。その視線は、トムや大人たちがあがめる制度や、あるいは「本に書いてあること」の一切を、馬鹿げたものとして切り捨てる。そして逆に、大人たちが見落としてしまう真に大事なものを、瞬時に見抜いてしまう叡智を彼に与える。そのような自然の賢さを与えられたからこそ、逃亡黒人奴隷のジムは、ハックの川下りの相棒たりえたのだ。すべての「制度」から自由であったハックでさえ、「黒人奴隷」というこの最も強固な制度に対して、当初は恐れを抱く。町から逃げ出したジムが、ハックに「密告しないこと」を約束させた上で、逃亡したことを告白したとき、ハックは恐怖とともにこんな風に言う。
「密告しないと言ったよ。だから約束を守るとも。誓うよ。みんなが僕のことを卑劣な奴隷廃止論者だというかもしれないし、僕が黙ってなにもいわないからといって軽蔑するかもしれない」(同67)
このとき確かに、「卑劣な」とか「軽蔑」という言葉から、ハックもまた完全に社会の作り上げた「制度」からは無縁でいられないことが読み取れる。しかしこの束縛からも、ついにハックは最終的には解放される。『ハックルベリー・フィンの冒険』という物語の中で、最も感動的かつ有名なフレーズであり、大江健三郎が座右の銘にしている名台詞をつぶやいて、ハックはついにジムと運命を共にすることを決意する。「よし、それじゃあ僕は地獄に行こう(“All right, then, I'll go to hell”)」(同331ページ)。ハックはこうつぶやいて、徐々に迫る逃亡奴隷ジムへの捜索の手を一緒に掻い潜ることを決意するのだ。
こうして、多くの問題と危機を乗り越えてハックとジムは友情を育み、そして旅を完遂する。この物語の魅力は、ハックの目線の距離感が現代に生きる我々にも共感しやすいからだ。共同体に上手く所属できないハックの目線は、その疎外ゆえに、その時代から時間的に疎外されている我々現代人の視線にむしろ近い。夏目漱石の「猫」に我々が共感するのに似て、我々はハックの視線の距離感の置き方に共感する。ハックが体現しているのは、その時代の制度にがんじがらめにされているトムの少年像ではなく、むしろ永遠の無垢としての少年だからだ。その普遍的な知性のあり方が、時代を超えて我々へと響く。
だが、そうであるからこそ、この小説は無類の悲しみを背負うはめになる。社会のどこにも帰属できないハックという存在は、物語の最初に町を抜け出し、そして最後に行き着く場所は、逃げ出したはずの最初の町になるのだった。死を決意して逃亡したジムだったが、そのジムは実は物語のはじめの段階で、すでに「解放」されていて奴隷ではなかった。物語はあれほどに輝かしいほどに充実した冒険を伝えていたのに、彼らのいないところですでに最初から物語は全て「無効」の印を押されている。そしてあれほどに深い交わりを結んだジムもまた、解放されたときにそれまでの手間賃として「40ドル」を受け取ったとき、自分が「金持ち」になったと大喜びしつつ、自然と共同体の中へと回帰していく。結局ハックは、最後にはまた一人になってしまった。今度ばかりは、本当にハックは一人なのだ。遠からぬ未来に、ハックは自分が「インディアン居住地」に旅立つことを予感している。これは、希望なのだろうか。ジムが英雄になり、それをお膳立てしたトムはまたもや株を上げた。だが、ハックには自分の言葉を交わす相手がついにどこにもいない。前作であれほど仲が良かったトムとの間には、すでにこの物語の前半に、亀裂が見え始めている。何より、この物語はなぜ「ハックとジム」の物語だったのか。どうして「ハックとトム」の冒険にならなかったのか。トムはすでに大人になりつつある。ジムは共同体との衝突を免れ、社会に戻っていった。ついに「ハック」はandで結んで一緒に旅する相手を全て失った。この物語の最後に出てくる「インディアン居住地」という、白人社会の制度から無縁の場所に行くことでしか、もうハックは安寧を見出せないのだ。
関西の大学院卒業後、各地を流転しながら文学研究に励む英米文学者。文学をこよなく愛し、文学から見える世界の様相、文化、思想などを緻密に読み解いていく。