連載コラム アート/カルチャー【ちょっと傾いたカルチャー座標軸】Vol.5

深海のYrr(イール)

荒井曜 (Akira Arai)


2008/08/26

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深海のYrr(イール)

自分の周囲の環境の変化を言い訳にしてしまうけれど、昨年の暮れから様々なことがあり、このコラムの執筆からずいぶん長い間遠ざかってしまった。どんなことでも復帰には多少のエネルギーと勇気が必要だ。ところが、いきなりジェット噴射なみの気力をくれたのが、『深海のYrr(イール)』だった。ドイツ語のハードカヴァーで出版された時は1000ページ、重量1.1キログラムもあったという大長編の海洋冒険サスペンス小説である。

先月、2泊4日でLAに行く用事があって、「しめしめ、飛行機で小説が読めるぞ」ということで、成田の本屋で偶然見つけた小説だった。上・中・下の3巻セットの文庫で、“海洋冒険サスペンス”という疑いようのない娯楽性が短い旅にはうってつけだと考え、上巻を手に取ってレジに向かい、思い直して中巻も一緒に買った。もし、その作品が傑作で、あっという間に旅先で読み終わってしまったときに続きが読めない拷問は考えただけでも恐ろしいからだ。

予感は的中した。機内で離陸前に読み始めたページをめくる手はロスに着陸するまで止めることはできなかった。最高におもしろい! 知らなかった深海の世界に好奇心は募る一方で、次々に起こる事件と世界の終末のイメージのスケールの大きさには驚くばかり。ヨーロッパ北部の都市は壊滅、ニューヨークもワシントンも次々に・・・・。その最初の発端は「沙蚕(ごかい)」である。あの魚釣りの餌にもなる気持ちの悪い生物だった。

この小説は、カール・セーガンやホーキング博士が描いた「海洋宇宙科学」(そんな言葉はないが)ものであり、マイクル・クライトンの構築力に匹敵する。あり得ない壮絶なカタストロフが、緻密な現実の科学的根拠と生物学的な知識によって展開するので、ものすごく説得力がある。そして、そして、「中盤までこんなに面白く飛ばしすぎてエンディングは大丈夫なの?」という、読者の心によぎる一抹の不安を見事に裏切るほど、美しく神秘的にフィナーレを飾ってくれる。

著者のフランク・シェッツィングは1957年生まれのドイツ人。大手広告代理店でクリエイターとして活躍していた経歴の持ち主で、作家デビューは38歳。本作は四年の歳月を取材に費やして書き上げた堂々たる長編5作目である。下巻の最後に謝辞として挙げられた人々には、執筆協力の編集者スタッフの他に、バイオテクノロジー企業の科学研究員や、生物学研究所の博士、海洋学、生物学、船体構造力学などを専門とする大学教授が30人以上も名を連ね、小説のエンタテインメント性を支えた知性を証拠立てている。

すべての物語には終わりがあり、分かりやすい娯楽性ほど時間とともに急速に消費されていくものである。しかし、この『深海のYrr』の読後感は、リーダビリティ抜群な完璧なエンタテインメントでありながら、生命や宇宙の深淵を覗き込んだ書物のように長く心に残るだろう。

「地球外知的文明の探索とは、われわれ自身を探すことだ。」―カール・セーガン

深海は、もう一つの宇宙だった。それをこれほど美しく、壮大なビジョンで伝えてくれた偉業に感謝したい。

深海のYrr(イール) 上・中・下巻

フランク・シェッツィング著/北川和代訳/ハヤカワ文庫刊


荒井曜(Akira Arai)

荒井曜(Akira Arai)

群馬県前橋市生まれ。本名、塚田誠一。多摩美術大学美術学部絵画科卒業。
現代美術のジャーナリストとして活動した後、1983年セゾン・グループの映画事業に参加。83年11月、アート系映画の老舗映画館「シネ・ヴィヴァン・六本木」をオープンさせる。同劇場の支配人を務めた後、配給会社シネセゾンに移り... 続きを読む





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