連載コラム アート/カルチャー【ちょっと傾いたカルチャー座標軸】Vol.7
模倣犯(1/2)
荒井曜 (Akira Arai)
2008/09/29
人気作家の宮部みゆきが2001年に発表したミステリー小説『模倣犯』を、今頃になって読んだ。2007年に出版された『楽園』を読んだら、これがすごく面白かったから。前畑滋子というルポライターが物語の要として登場するが、彼女は『模倣犯』の最終巻で真犯人と対決するキーパーソンになっている。つまり『楽園』は、『模倣犯』のスピンオフ企画だったのだ。順序を遡って『模倣犯』にたどり着き、今更ながら宮部みゆきという作家の筆力に脱帽しているわけである。
『模倣犯』は文庫で全5巻の大作だが、その獰猛な物語の力に1巻目から胸ぐらを掴まれてしまい、毎日仕事をほっぽり出してでも先を読み進みたい欲望に苛まれ、巻を追うごとに読む速度を加速せざるを得ない中毒性を持っている。森田芳光監督で映画化され、SMAPの中居くんが主犯の殺人者“ピース”を演じて話題になったし、そもそも日本のミステリー小説の金字塔としてロングセラーになっている小説に「今更僕が何を?」というところもあるのだが、まあ「座標軸の傾いた」当コラムではそれもありということで、ちょっと一考察してみたい。
前畑滋子は鉄工所を経営している夫を持つ主婦で、ライターである。姑の愚痴にも悩まされながら、執筆の仕事と家庭のバランスを取ることに苦労している。女性作家らしい筆致によるこの日常性の描写が、女性連続殺人事件のような非日常と絶妙な具合に絡み合い、平和なお茶の間にテレビの報道によって突然飛び込んでくる事件の恐怖をいっそうリアルなものにしている。「えっ、ご近所のあのお蕎麦屋さんの長男が?! 気の優しい、いい息子さんでしたわよ。」 現代における殺人事件は、なにか禍々しいものが初めから顕在化していたというより、国民全員で支えている天上の重みに耐えられなくなった任意の誰かが、その一般的無名性のなかで突然に引き起こしてしまったと見えるようなものが多い。しかし、深く、殺人者の心理の底まで降りていく作者は、かならずその最深部に子どもと親の関係の歪みがあることを発見していくのだが。
1990年代半ば、バブルの虚ろな狂乱が去って経済的に下降線をたどる日本社会に発生した女性連続殺人事件。それは被害者たちの怒りと絶望を楽しむ殺人者によって演出され、テレビ報道に釘付けにされる日本の「大衆」を観客として意識した、前代未聞の「舞台劇型」殺人事件だった。身代金の要求もなく、オリジナルな「舞台」の創出のために行われた無慈悲な快楽殺人は、犯罪の概念自体を根底から覆し、社会を恐怖のどん底に突き落とす。
こう書くと、奇抜なアイデアに貫かれた娯楽ミステリー小説の典型のように見える(僕もそう思っていた)が、『模倣犯』は単なる娯楽の域を超えた、鋭い文明批評として機能している。全5巻という長大な物語を、様々なアングルから描写した人々やその家庭環境の断片によって構成し、バブル崩壊後の、(いや戦後ずっと)生き方の指針を失った日本社会全体を炙り出している。僕はこれを読みながらずっと脳裏にひっかかっている小説があった。中井英夫が60年代に執筆した『虚無への供物』である。この作品は、1954年に1155人もの犠牲者を出した海難事故、洞爺丸沈没の事件をモチーフにしながら当時の日本社会を糾弾?した快作である。講談本的な下作な筆致の奥から、最後にくるりとこちら側に振り返るように国民全員に突きつけられる氷の刃。これにはびっくりした。そして『模倣犯』の中にも、中井英夫の刃とは異なるが、それを連想させるものがあった。
















